──自分らしく生きるとは?
自身の持つジェンダーやセクシュアリティの多様性を表現し、社会規範を問うパフォーマンスアーティストのマダム ボンジュール・ジャンジさん。
「ずっと自分探しをしていた」と語る人生は、決して平坦なものではなかった。
国連「UN in Action」シリーズ『Beyond Boundaries: Drag Queen of Tokyo』(境界を超えて ー 東京のドラァグクイーン)で取り上げられ、世界的にも注目を集めるジャンジさんはどんな人生のストーリーを歩んできたのだろうか?
今回後編では、HIVやLGBTQ+コミュニティとの繋がり、子どもに向けたイベントの企画などに注力する現在に触れながら、経験したからこそ寄り添える自分だからできる生き方についてうかがった。
私と新宿二丁目の関わり
話しづらいことを話せる場所をつくる
私の人生においてHIV/エイズは特別なものではなく、とても身近なものだった。
1992年、パフォーマンスグループ「ダムタイプ」のメンバーでもあるアーティストの古橋悌二さんがHIV陽性をカミングアウトする手紙を友人たちに同時にFAXで送り、「S/N」という作品ではHIV/エイズやセクシュアリティを取り上げて公表したことでセンセーションを起こした。
私はその手紙をコンテンポラリーダンスの黒沢美香さんのスタジオでみんなと読み、1994年の日本初の国際エイズ会議で上映されたナン・ゴールディンなどのアーティストが出てくる作品「エレクトリックブランケット」に心が動かされたし、会議後に行われたパーティー「LOVE BALLー交歓の舞踏会」では、研究者だけでなく陽性者やパフォーマーなどあらゆる共に生きる人々が一同に介して、世界のエイズを取り巻くリアリティを共有した空間が、とても印象的だったのが忘れられない。
残念ならが古橋さんはその一年後に亡くなったんだけど、HIV/エイズとアートやクラブカルチャーに関わる中で、パフォーマーとして京都で開催していた「CLUB LUV+」などに出演したりして、ハスラー・アキラさんや長谷川博史さん、アラタさんたちとの関係も生まれていった。2001年には東京のパレードでHIV/エイズのフロートを手伝ったり、2003年に立ち上がったコミュニティセンターaktaでその後スタッフをしたり、このコミュニティとは長い付き合いになりました。
だからaktaでは、HIV陽性者やLGBTQ+の人、生きづらさを抱えている人たちが、話しづらいことを話したり安心できる居場所になればと願って活動してきた。
「性」ましてや「性の健康」の話は友達や家族でさえ打ち明けづらいことだし、私が自分自身と向き合うことができなかったり、相談できる場所がなかったように、同じ困難さを抱えている人に寄り添えたらって。自分の歩んできたこの経験がここで活かせられたらと思って。
幅広い価値観に出会える可能性
ドラァグクイーン・ストーリー・アワーへの2つの想い
2015年に米サンフランシスコで始まり、世界中で広がりをみせる「ドラァグクイーン・ストーリー・アワー」。
ドラァグクイーンが子どもたちに絵本の読み聞かせをするプログラムなんだけど、東京で始まったのは2018年。ニューヨークで暮らしている吉田さんが州立図書館でお子さんとこのイベントに参加して感銘を受けて、日本でもできないかとの相談を受けた私と(故)長谷川さんが宮田ヒロシさんや笠原さんに声をかけて一緒に続けている活動です。
なぜ私がやりたいと思ったかというと、2001年に子どもを対象にした「ワタリウム美術館/アート一日小学校展」にハスラー・アキラさんたちと「H! KING」というユニットで参加した時、スキンシップをテーマに展示やワークショップをやったんだけど、ゲイの友達もたくさん遊びに来てくれてね。
同性愛の友人たちの多くは子どものいる家庭を築きづらいから、子どもと接する機会が少ないじゃん。そしたらさ、みんな子どもたちと遊んだりハグしたりして、すごく喜んでてね。こうしたコミュニケーションって良いなって思えたし、保護者たちにもいろんな気づきを与える機会になるんだって感じたんだよね。
あとね、子どもって本当真摯なんだよね。ごまかしがきかないから好き。
オープニングの日に近所の幼稚園の子どもたちが遊びに来てくれたんだけど、みんなが遊べるように作ったチーズの家に敷いた藁をある子が投げつけてきて、「気持ち悪いお前帰れって!」って叫んだの。色々私たちも戸惑ったんだけど、でもね、その男の子ずっと遊びに来てくれたんだよね。
ちょっとフェミニンな感じの服装をしていたから、もしかしたら自分がいじめられたりしてずっと我慢してきた怒りをこっちにそのまま向けてきたんじゃないかって感じた。その歳ではまだ分からないんだと思うけど、自分を守るための防御の一つだったんじゃないかって。
幼心に子どもだってしっかり自我があって、性にもゆらぎはある。見慣れてないから異質になってるだけだけど、子どもってきちんと触れ合うことでその違和感がすぐに楽しい経験に変わるんだよね。
だから、子どもたちとは対等に向き合って、いろんな個性があってOK!ありのままの自分でいることがOK!だって伝えていきたいと思ってる。
妊娠・中絶を乗り越えて
2つの命について考えた時期を糧に
そうそれで私がこうして、HIV/エイズに関わる活動も子どもに向けたイベントを続けているのも、実はね、過去に中絶をした経験が深く関わっていたりする。
話は少し遡るんだけど、この身体と一緒に生きていくと決めた時、それまでは誰にも自分の身体を見せることができなくてセックスもできなかったんだけど、とりあえずやってみようと。男性と経験を持ったんだけど。
……そしたら妊娠してしまって。もちろん避妊の知識はあったんだけど、自分がコンドームを持ってなかったから上手くリードすることもできなくて、中出ししないから大丈夫という話に身を任せてしまって。
相手は絶対に認知しないって言ってたし、私も今の自分と向き合うことが精一杯で、結婚や子ども、家族を持つことを考えたことなかったから中絶を決めたの。ただその時行った病院の先生に、まさか中絶なんか考えてないでしょうねみたいなことを言われて、まるで自分のことを犯罪者だと言われたような気持ちだった。本当は自分のお腹の中に命が宿っていることも意識始めていたんだけど、相談できる人もいなくて。
手術を終えてからが長く辛い時期だった。
頭では分かっていても身体が追いつかない。一年くらいはずっとずっと泣いていた。泣くとかそういう感覚もなくて、電車乗ってるだけでも涙が溢れてきて。
精神的に不安定で、生きるとか死ぬとかも分からなくなっていた状態で。自分でも気づかなかったんだけど……、本当は産みたかったんだなって。
YES!フューチャー
どんな未来も、今“ココ”からはじまる
仕事は休まず続けていたけど、自分の心が同じ場所に立ち止まったままいると、自分以外の全てのものだけが動いていく感覚はあった。そんな毎日を過ごす中で、ある朝、ふいに気づいた。
……どん底に落ちて、苦しみもがいても、どんだけ泣いても、死ぬ勇気はないし、かといって生きたいと思ってなくても、日は昇って太陽はそこにあって、鳥は囀り、季節は移ろっていくんだもん。
10代の頃好きだったパンクロックバンドのひとつ「セックス・ピストルズ」が、NOフューチャー!NOフューチャー!って歌ってて、それまで未来について考えたことがなかったのに、結局地球は回っていて、望まなくても明日が来るんだったら生きるしかないじゃん!それなら一期一会の瞬間瞬間を生ききろう!って思えて、そっかこれって……。
NOフューチャー!じゃない、「YES!フューチャー」だって、自分の心に深く刻んだんだ。
──ぷれいす東京さんが作っていた陽性者の手記集を始めて読んだ時に「自分がこんなことになるとは思ってもみなかった」みたいな感じのことが書いてあって。私もまさか自分がこのような命に関わる体験をするとは思ってもみなかったので、似てると感じた。性教育が必要だと思った。だから、今はこの経験を通してやっていきたいことがまだまだあってね。
HIV/エイズについては、「Living Together」イベントなどを通じてまだまだ根深い偏見や差別をなくしていきたいし、パフォーマンスアーティストとして作品をつくり「HUGたいそう」も広めていきたい。また「ドラァグ・クイーン・ストーリーアワー」を図書館などでも展開して、子どもたちが自己肯定感を育み、違いにOK!といえるいじめのない社会へ。そしてひとりひとりがミラーボールのように個の光を放射して、きらきらした世界になるといいなと思ってる。
■マダム ボンジュール・ジャンジ
あらゆる境界線を超えたキラキラした世界を願い「YES!Future」と謳い続けるパフォーマンスアーティスト/1997年より交歓のミックスパーティ「ジューシィー!」を主宰。「HUGたいそう」などワークショップやパフォーマンス活動を展開し、ドラァッグクイーンによる子どものための絵本の読み聞かせプロジェクト「ドラァグクイーン・ストーリー・アワー東京」を仲間と運営している。長年、新宿二丁目の「コミュニティセンターakta」を拠点に、HIV・セクシュアルヘルスの情報提供や支援活動にも従事。
https://bonjourjohnj.tokyo
取材・インタビュー/村上ひろし
撮影/EISUKE
記事掲載/newTOKYO