「20年の空白を埋めるように」。母の介護に3年半を捧げた、バビ江ノビッチさんから考える“今”の尊さ

ーーゲイの老後は寂しい。
当事者であれば若い頃から、そんなことを耳にする機会がある。あるいは「歳をとったら、みんなで同じ老人ホームに入ってさ…」なんて仲間同士で話している人も多いかもしれない。でも、自分の老い先を考える前に、親の余生、あるいは介護が必要になったときのことをどれだけ具体的に考えたことがあるだろう。法の下で互いの人生を支え合うパートナーはもちろん、所帯を持つことや子どもを授かることが難しいLGBT当事者にとっては、いずれ来るかもしれない親の介護に対する肉体的・精神的負担は大きい。一人っ子や頼れる親戚が少ないのであれば尚更だ。

「母が75歳ぐらいになったら一緒に暮らすなり、今後の計画を立てるなりしようかなとは思ってた。だけど、そんな日が予定よりも4年も早く来て突然、介護が始まった感じなの」。
穏やかな声で3年半に及ぶ母親の介護を振り返ってくれたのは、新宿二丁目にあるバー「marohige」のマダムでドラァグクイーン、バビ江ノビッチさん。お母様が逝去した昨年8月14日からおよそ5ヶ月が経ちお話ししてくれた、当時の生活ぶりや介護を通じて感じた気持ちは、身の回りにいる大切な人が生きているという、今この瞬間の尊さを教えてくれた。

ーー「実家を顧みなかった20年間の償いになれば」。脳腫瘍を患った母への想いについて。

母の病気が分かったのは2017年の年末、母が71歳のとき。膠芽腫(こうがしゅ)と呼ばれる脳腫瘍の中でも最も治療が難しく手術をしても必ず再発し、5年生存率は限りなくゼロに近いという病気で、医師からは1年から1年半くらいではないかと告げられました。即入院・即手術と聞いて、それはもうショックでした。親の死、老後っていうのは何となく考えてはいたものの、母が75歳を超えたら動けばいいかなぁとボンヤリ思っていた矢先の出来事だったので、早すぎるなと。号泣しましたね。「ワタシまだ何もしてない、何一つ親孝行できてないじゃん」って。

そういう後悔の念みたいなものが湧いた理由は明白で、実家は新宿から片道2時間しないぐらいの場所にあるんだけど、東京へ出てきてからの20数年間、帰省するのは正月ぐらいで実家を顧みることが殆どなかったから。別に仲が悪いとかじゃなくてね、必要以上に連絡を取ってなかったって感じ。上京してからずっと、自分のことだけに精一杯で、育ててもらった恩も忘れてただただ自分の生活だけを何よりも大切にしてた。

関係性が希薄だった時間を全て埋めることは難しいけど、最期まで看ることが償いになるのであればと母の在宅介護を軸とする生活を選んだ。ワタシは若い頃に仲違いしたまま父を交通事故で亡くしいて、それを今もずっと後悔してて…。それに、ゲイコミュニティで生きてるからか女装業だからか分かんないけど、これまでに年齢や職業、立場に関係なく実に多くの人の死に直面してきてね、その度にたくさんの後悔を経験してきた。多分そんな経験をしてきたからこそ、せめて母にはそんな後悔はしたくないと思ったし、素直に自分に出来る全てを母に注ごうと思えたのかも。

だって、父に至っては今でも夢に出てくるんだもん(笑)。余命が分かっている分、ワタシも姉も妹も、後悔が残らないよう母のその時まで全力を尽くすことは可能なんじゃないかなって思ったの。母の介護をするにあたり、ワタシが提案した姉弟間のグランドルールは2つあって。第一は母のQOL(クオリティオブライフ)を最優先で考えること、第二は母の余生に関わる選択は多数決ではなく3人全員が納得してひとつの選択をすること。姉弟の誰もが絶対後悔しないように、それだけは守っていこうって決めたんです。

病気が分かってからはワタシと姉、妹の3人でグループラインを作って母にまつわるあらゆる情報を共有をしました。定期検診の数値はどうだったか、何時に起きて何時に寝たか、朝食は何をどれくらい食べられたか、体調はどうか、運動はどれくらいしたか、夕食は何を残したか、薬は飲んだか、とか。ツイッターに上げてたワタシの介護料理写真はここで姉弟と共有するために撮ってたものなの。

ちなみにその時に初めて妹とLINEを交換することになったんだけど「そう言えばワタシのLINE、名前もアイコンも『バビ江』で登録してるわ」と思い出して…。カミングアウトしてなかった妹にいきなり女装画像見せながら「実はお兄ちゃんの仕事、これなんだよね」と(笑)。妹は「え~!やだ早く言ってよ!子ども生まれてなかったら、旦那と一緒にイベントもゲイバーも行ったのに~」なんて言ってくれてね。

本当によくできた妹だと思わない?ワタシが23歳の時に母にゲイバレしたんだけど、その3日後に父が事故死してしまったから、ワタシのカミングアウトなんて吹っ飛んでしまって(笑)。その後数年は亡父の裁判もあってピリピリしてたから母もその話はしてこなくて。やっと落ち着いた頃には妹の縁談が決まってたの。相手が地方のちゃんとしたお家の長男さんだったから、母からは「相手方には知られたくないから妹には絶対言ってくれるなよ」と口酸っぱく釘刺されてね。カミングアウトのタイミングを失って、妹には自分の仕事についてもずっと何も言えずにいたの(笑)。妹にそんな唐突なカミングアウトもしつつ、姉弟で介護の方針や体制を整えていったかな。

ーー介護に捧げた日々「ワタシがノンケで家庭を持ってたら、ここまで母親のために尽くせなかったとも思うの」

本格的に母の介護が始まったのは、手術と放射線治療が終わり退院した2018年4月。残された時間を少しでも快適に過ごしてもらえるよう、長年使い古して軋んだベッドも大きいサイズに新調したりね。弱りきった身体への日和見感染が怖くて実家を隅々まで念入りに掃除した上で迎え入れました。それから姉は実家に戻り母と同居、ワタシは通う形での介護、妹は3人目の子どもが生まれたばかりだったから頻繁に来ることは難しかったけど頑張って時々来てくれたし、何より精神面でとても支えになってくれた。

母はというと、3ヶ月寝たきりの入院生活だったから歩くのもやっとの状態で、階段は一段も上がれないほど足腰が弱っていたの。週に1、2回は看護士さんや理学療法士さんが来てリハビリしてくれるんだけど、それだけじゃ全然足りないと思って、毎日一緒に家の周りを少しずつ散歩したり、膠芽腫による認知症状の改善のために計算ドリルや脳トレパズルをやらせたりしてた。

朝方お店の仕事が終わって始発に乗って実家に向かって…。多い時で週5、6回は通ってたかな。ベロベロに酔ったまま姉と母の朝ごはんを作り、二人を起こし、姉を仕事に母をデイサービスに送り出したらゴミ出しをして洗濯をして。その後お昼12時くらいから、母がデイサービスから帰ってくる15時くらいまでが唯一ワタシが眠れる時間。15時に起きて母を迎えて掃除や夕飯の支度をして母のリハビリをして…なんてしてたら、あっという間に19時になる。姉が仕事から帰ってきたら入れ替わるように今度はワタシが仕事へ行くというね。新宿までの小一時間の電車も貴重な睡眠時間だった。そんな日々が日常になっていったかな。

「雨が降っているから今日は散歩は行かなくていい」と病気のせいか、やや性格がガンコになり、多少子ども返りしたような母にそんなことを言われても「ダメよ〜行くわよ〜」と毎日必ず散歩に連れ出して。半ば強引だったかもしれないけれど、トイレまでの数メートルも歩けなかった母が、2ヶ月後には3、4kmも歩けるようになるまで回復して。その夏には家族みんなで母の故郷である神戸に旅行することもできた。母の生家や母校、母が大好きだった「神戸にしむら珈琲店」にも連れて行って。意識がまだしっかりしてる内に、そして自分の足で歩ける内にもう一度故郷に連れて行ってあげられて本当によかった。

寝たきりになって、違う病気まで患ったりしたらどうしようって不安な気持ちから始めた自己流のリハビリだったけれど、この時ばかりは「よくやったじゃないワタシ!」と自分を少し褒めてあげられたな(笑)。

ただ、介護が始まった1年目の春に、今度は姉の心の病気が判明してダブルケアが始まってね…。そこから、母が緩和ケア病棟(ホスピス)に入るまでの2年間は、本当にしんどかった。姉にはもう頼れないと思ったし、頼れないどころか母のQOLそっちのけの提案ばかりして邪魔してくるし怒ってくるし泣いてくるしで、もう毎日がグチャグチャの修羅場。それでも姉にも絶対後悔させてはいけないと思うと、姉の奇天烈な希望にも沿わなくてはいけなくて、ワタシは肉体も精神も限界間近だった。

もし一人っ子のゲイで家族や頼れる人が誰もいなかったとしたら、ワタシはとてもじゃないけど抱えきれなかったと思う…。あと、ふと、もしワタシがノンケで妻も子どももいる家庭を持っていたとしたら、ここまで母の介護にあれこれ費やすことは出来なかったかもしれないとも思ったな。実際、ワタシの父は本家の長男の嫁に祖母の介護を任せきりにしていたし…。母が通える距離に住んでいて、ワタシは独り身のゲイで、しかも仕事が昼夜逆転の水商売というのはちょうど良かった。身軽に動けるし、母の介護を姉と二人、昼夜で上手く分担できて。介護したくても物理的に不可能という人もいる中で、ワタシは少なくとも母への思いを全う出来たから恵まれていたんじゃないのかな。

結局、ゲイってマザコンじゃない?(笑)。母親のためなら何でもやってあげたいって人は多い気がする。ワタシは自分のことをドライだと思ってたけど、やっぱりマザコンだったみたい。母と向き合う介護の時間を40代前半という年齢で迎えられたのも、タイミング良かったのかな…。もっと若いときに介護生活を強いられてたら精神面でキツかっただろうし、かといって5~60代でとなると今度は肉体面で無理が効かなくなってるだろうし。

ーーコミュニティに救われ続けた3年半。「受け入れてくれる人と場所は後々、必ず必要とする時が来る」

介護真っ只中のときは自分の時間なんて殆ど無かったな…。水商売もショウもそうだけど、楽しさを提供するお仕事だから、自分が常に楽しくいなきゃ出来ない。でも母のことを考えると、そして実際の心身の疲れを感じると、とてもじゃないけど「楽しい!」なんて気分にはなれなくて、だんだんと私生活と仕事に対する気持ちが乖離し始めてね。気付けばツイッターを痰壷代わりに介護のしんどさを吐くようになってた(笑)。

でも、それによってスッキリ出来たし、同じような境遇の女装仲間とは励まし合うことができたし、お店に来た方が「実は私も介護中で…」と話を切り出してくれたこともあってね。そんなみんなのことは勝手に戦友だと感じて、どこか心の支えになってた。 ワタシだけじゃないって思えることでだいぶ救われたな。

二丁目のゲイバーにもとても救われた。介護による心身の負担、死に向けて日に日に弱っていく母、姉の病気という重い現実で頭の中がグチャグチャになった時、頼れる場所があるっていうのは本当にありがたかったね。元々ワタシは呑ん兵衛でかなり飲む方なんだけど、この3年半はストレスのせいでとんでもなく酒癖が悪かったと思うの…。でも、事情を知ってるママさん達は受け入れてくれて、そんなのを忘れるくらいパーッと楽しませてくれたり、逆にとことんまで重い話に付き合ってくれたり。旅行も遊びも行けずプライベートな時間が殆ど無い中、束の間リフレッシュできた唯一の場所はゲイバーでした。

そして何より一緒に働く「marohige」のイズミさんとバンザイさん、mAkeyさんが本当に助けてくれた。母の夕飯を完食させて、その後の服薬を確認するまでは実家から出れないから、お店への出勤がどうしても遅くなってしまう日が多くてね…。ワタシがやっと店に着いてドアを開けると満席でスタッフ大忙しみたいな光景が日常化していたんだけど、全員が文句ひとつ言わずに支えてくれて。普段だったら、彼らが飲みに付き合ってくれることなんて滅多に無いんだけど、ワタシの事を察してたま~に付き合ってくれることもあったし(笑)。

この街のコミュニティには、お返しをしていかないといけないと思いましたね。ゲイバーでも友達でも、なんでも話せてガス抜きができる居場所っていうのは本当に必要。ワタシにはいつの間にかそんな場所が出来ていてよかった。

母が亡くなった後、長い付き合いのゲイバーのママから「介護頑張ったね、いい息子じゃん」とメッセージを頂いたんだけど、20数年前東京に出てきた頃、ワタシはほんとクズ息子だったと思うの。いい息子として母を見送れたのだとしたら、それはそのママをはじめとした、二丁目やゲイコミュニティで出会ってワタシを変えてくれた素敵な人々のおかげだなと…。つくづく感じますね。実家を顧みなかった20数年は、ただ無駄に過ごした訳じゃなかったんだなと少し思えました。

そして、そんな日々に一区切りついたのは、母が緩和ケア病棟(ホスピス)に入院した2021年1月。食事介助の時間はだんだんと長くなり2時間を超えることもあって、こちらが腰痛に悩まされたりした。徐々に言葉もままならくなり寝たきりになった母は、次第に口元まで持っていったご飯も食べられなくなり、瞳も虚ろになって…。もうたぶんワタシを息子だと認識していない瞳だった。日に日に弱っていく母の姿を目にするのは精神的にきつかったけど入院後も通い続け、そして2021年8月14日の朝に亡くなりました。コロナ禍ということもあって最期には立ち会えなかったけれど、姉からは穏やかに息を引き取ったと聞きました。

正直な話、ホッとしたんだよね…。苦しそうな母の姿をあれ以上見てるのは辛かったし。それに、どんな状態でも一日でも長く生きて欲しいと願っていたけど、ワタシにも、何より姉にも限界が来ていたように思えていたから…。ワタシや姉が壊れきる前に逝ってくれたんだな、と思った。姉の心の病気は母の介護が少なからず原因だったと思うし。姉はそんな状態だったけど、最後の一年間は介護のために休職して、つきっきりで母を介護してくれて。毎日の炊事も洗濯も入浴介助も下の世話も。そこは感謝しかないわ。3人で一番最初に決めたルールも十分に全うできたと思えたし、しかも、余命1年半と言われた日から3年半も頑張れたのだから、大往生じゃないかなと思えてね…いろんな意味でホッとした。

少しの後悔はあるよ。コロナ以降は実家に通う頻度が極端に減ってしまってね…。ワタシは接客業で不特定多数の人に会うから、店はかなり過度な感染対策をしてるとはいえ、もしかしたら自分は無症候性キャリアかもしれないなんて考え出すと、怖くてそうそう頻繁に帰れなくなっちゃって。母は抗がん剤も投与してたから、コロナにかかったら絶対死んでしまうと。自分が原因で死んでしまうなんて怖いことだし、もしそんなことになったら姉からも妹からも一生恨まれるなと…。その頃は無症状の一般人が気軽にPCR検査を受けられる施設なんて無かったしね。

もしコロナが無くて、ワタシがそれまで通り毎日のように通ってリハビリ散歩や脳トレを継続出来ていたら、もう少し長生きできたんじゃないか、とかも考えちゃう。

母の余命を宣告されてから母に絶対に伝えようと思っていた「産んでくれてありがとう」という言葉もなかなか言い出せなくてね…。散歩の途中に不意にふんわり伝えたりもしたけど、ちゃんと伝えられたのは母の心身が弱って入院したホスピスでだった。 母はもうだいぶ意識が混濁してたので、理解出来ていたかは分からない。

散々いろんな経験をしてきて、接客業もしてるからさ、コミュニケーション能力はそれなりにある方だと思っていたのに、自分のことになるとダメね、照れ臭くて。母もシャイな人だったからお互い様かもしれないけどね。後悔しないようにと決意したのにこのザマよ(笑)。

ーー「これまで通り、楽しい人生のまま逃げ切りたい!」。介護を通して考えたこの先の人生について

母が亡くなってからのこと…そうねぇ、自分の保険を掛け直して、入院保証が手厚いプランに乗り換えたかな(笑)。自分の老後って、予想できないし、想像できないし、想像したくないもんじゃない?同世代の友達ともよく話をするんだけど、ワタシたちのような人々がどのように老いて、どのように生涯を全うするのか、あまりにもそのロールモデルが少ないと思うんだよね。極端に暗い将来しか想像できないくらい、イメージするためのサンプルが足りない。独り身のゲイが老いてどういう暮らしをしているのか、メディアを通してもっと発信してもらえると嬉しいなっていうのは率直に思った。

それと、この介護生活は一人で生きていくことになるかもしれないワタシ自身の将来に備える時間でもあったかな。介護保険制度の手続したり地域包括支援センターを訪れたり、ケアマネージャーさんと話したりして、今までぼんやりとしか知らなかった介護の制度とか介護にまつわるアレコレがね、この年になってようやく分かった。

母を一人にさせている時間が心配だからと民間の警備会社のサービスを調べていた時に、ベッドから一定時間以上動かないとセンサーが検知して担当者が自宅に訪問してくれるサービスなんかも見つけて、「あ、これは自分の将来のために使えるな」とかね(笑)。

ワタシ自身のこれからについては、母と同じくQOLを一番大切にして生きたいかな。勿論まさかの時に周りの人が困らないように葬儀代とかお墓代なんかはきちんと用意して、後はエンディングノートとまではいかないけれど「これを見れば一通りのことが分かるよ」みたいなものも書類と共に整理しておかなくちゃって思った。

これまでずっと楽しいことばかりをやってきた人生だから、このまま楽しい人生を爆走して逃げ切りたというのが何より一番の希望ね。今際の際に、あれもやりたかった、これもやりたかった、と後悔するんじゃなくて、あれもやった!これもやった!ああ、楽しかった!って死にたい(笑)。

母は男の子であるワタシの前で裸体を晒すことを良しとしなくて、床ずれ防止の体位交換で患者衣が少し乱れただけでもシャキッと直すような、昔気質の凛とした人だったから、どんなに認知症状が進んでも最期までワタシが母の入浴やトイレの介助をすることを許さなかった。そういう意味ではワタシは生々しい介護というものは経験していないかもしれない。母の病気の特性から5年以上は無いと分かっていたから、終わりが見えない介護の真の辛さも分かってないと思う。だけど、多少なりと介護の肉体的・精神的なしんどさを経験した身からすると、とにかく一人で抱え込んではいけないと思いますね…

そして、ワタシがしてもらったように、今度はワタシがしんどい思いをしている誰かの受け皿になれればいいなと思います。気晴らしでワーッと騒ぎたい人も、ただモヤモヤを吐き出したい人もワタシのところにおいでよと。重い話も暗い話もなんでも聞くよって。その時は、夜中までも朝までも付き合うわ。

ーー誰かの死を目の前にして“今”という時間の重みを実感できていない自分にとって、いつか行こう、いつか言おうと思っている、その“いつか”はまだまだ猶予があるように思えてしまう。筆者には62歳の母と73歳の父がいるが、上京した18歳の時から27歳となった今まで、親の死や介護というものは、ふとよぎる問題であり続けている。後何回帰省して同じ時間を過ごすことができるだろう、15年近く行っていない家族旅行に行きたいと話していたが兄2人は協力してくれるだろうか。

介護にしても所帯を持つことがないであろう自分が同居して介護するのか、それとも月数十万円の費用を兄弟で分割して、「ボケたら老人ホームに入れて」と冗談半分に話す母の言葉通りにしてあげることが幸せなのか。正直、今すぐに事細かく決められるほど現実味を帯びた問題として捉えることはできていない。ただ、取材した以来「親への後悔が残らないように」というバビ江さんの言葉がぐるぐると頭を回り続けている。

育ててくれた感謝や親の負担や今後の関係性を考えてゲイであることを伝えていないモヤモヤを、残り限られてきた時間の中でどのように解消していけばいいのか。きっと当たり前の今が尊いものに思えるような不幸が目前に迫った時にしか答えを出せない気はするが、その時がきたらせめて後悔のない選択ができるような自分でありたい。

企画・取材/芳賀たかし
写真/新井雄大
撮影協力/marohige(東京都新宿区新宿2丁目18-1 TWO FRONT BLDG.5F)
記事制作 /newTOKYO