Have a nice Flight!今も愛され続けるポルノスター・真崎航 七回忌を迎えた今、彼の歩んだ軌跡を振り返る。

雲ひとつない青く澄み切った晴天の日。
2019年5月18日東京都内にて、真崎航の七回忌を偲ぶ会が友人らによって行われた。
この日は彼の思い出話に浸りつつ、ゆったりとした時間が過ぎていった。

あの日からもう6年。
あなたは今どこで何をしていますか?
今も僕たちと一緒に笑ってくれていますか?

透き通ったあなたの瞳を見るたびに、いつも元気づけられていました。 今から6年前の2013年5月18日、人生の航海を締めくくった真崎航。29歳という若さで急性汎発性腹膜炎による播種性血管内凝固症候群のためこの世を去った彼は、ゲイビデオ男優としての人生をまったく恥じず、アジア旋風を巻き起こした日本を代表するポルノスターだった。

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透き通った瞳と憂いを帯びた素顔。
真崎航がポルノスターになるまでの道のりとは?

岩手県盛岡市の温泉街で育った真崎航は地元では「おちんちんのまー君」の愛称で親しまれていた。生まれた時からおちんちんに興味を惹かれ、お風呂屋さんではいつも誰かのおちんちんを触りに行っていたそうだ。そんな彼の行動を両親や近所の人は素直に受け入れ、いつしか本人がゲイであると意識する前から周りに「男の人を好きになっても良いんだよ」と言われ育ったと言う。

その後思春期を迎える頃になると、彼は積極的に色々な男性と経験を重ねるうちに、人によって感じるところや興奮する要素が違うことに興味を示した。たくさんの雑誌やビデオを観てセックスの嗜好を勉強するようになり、大学卒業後は上京してウリ専で働くまでになった。

2011年5月5日に行った取材の日の様子(バディ2011年7月掲載用)。朝一からの撮影でスタッフのために簡単でヘルシーな朝ごはんを振るまう真崎航。

「セックスの見方、見せ方には色々なシチュエーションが存在する」
真崎航に転機が訪れたのは当時人気を博していたビデオメーカー「JAPAN PICTURES」からのオファーだった。ゴーグルマンのタチモデルとして出ることになった彼だったが、次から次にくる指示に全く使い物にならず歯がゆさを覚えたと言う。その場の快楽だけの技術ではなく、見せるというテクニックが彼には必要だった。
そのショックを皮切りに、彼はカメラの位置やモデルの体型に合う角度、見せ方の感覚を少しずつ自分のものにしていった。そしていつからかその仕事ぶりが買われ、素顔を公開してのタチ男優というものを定着させていった。プロのゲイビデオ男優への自覚が明確になっていった時期だったと言う。

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真崎航が当時住んでいた東京・中野区の自宅からの眺め。
2011年のインタビューの時にすでにポルノスターという肩書きで大きく活動を始めていた。

アジア旋風を巻き起こした真崎航の活躍。日本のひとりのゲイを代表したその功績とは?

正式な作品への出演は2009年から。それ以前のゴーグルマン時代から数えると彼の出演した作品は250作以上にも及んだ。そんな彼はAV男優をする傍ら、ゲイコミュニティを代表するひとりのゲイとしても、様々なイベントに参加し、アジアのLGBTの未来を斬り開くための努力を惜しまなかった。
ゲイ雑誌や写真集へのモデル出演やクラブイベントへのゴーゴーパフォーマンスは有名だが、レッドリボン活動などにも意欲的に取り組んだ。HIV感染予防対策研究DVDへの出演やセーファーセックスキャンペーンへの出演、台湾虹彩文化祭への出演など現地のニュースや記事でも取り上げられ話題となった。
後に真崎航はインタビューの一節でこう語っている。「この道を歩むと決めた時から病気のことを考えても仕方がない。仕事を続けていくためにはそう割り切るしかなかったし、いつ死んでも良いやって気持ちで生きてきました。だけど、大切な人や仲間ができていろんな人と知り合っていろんな価値観を知っていくうちに、いつまでも健康でみんなとずっと一緒に生きていきたいと願うようになったんです。そしたら急に今までの世界が崩れて怖くなったんです。HIVという存在や、ビデオの中での生掘り種付けという表現が与える影響が。その日から俺は、ただのプロのゲイビデオ男優ではなく、誰もが憧れるカッコいいポルノスターという存在に本気でなりたいと思いました」

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真崎航らしい賑やかで楽しい一夜となったお別れ会。パートナーの天天の着ていたTシャツはいつの間にか真崎航へのたくさんのメッセージで溢れかえっていた。

天を航る、涙の日から49日の法要を迎えた日。
パートナーだった天天が語ったこれからのゲイに託す未来。

真崎航の告別式から2週間後の6月4日。平日にも関わらず全国各地から651名の方々が新宿二丁目で開催されたお別れ会にかけつけた。そして彼を語る上で欠かせない人物と言えば、3年という年月を共に歩み、寄り添ってきたパートナーの天天だった。残念ながら天天は、2017年2月21日に交通事故で亡くなっているものの、当日の告別式とインタビューでこのように語っている。
「僕たちは恋人としての愛情とは別に、家族としての愛情が生まれていました。同性婚という結婚観についての意見は様々だと思います。僕は書類上の契約で愛情のレベルを計るつもりはないけれど、ただ、今振り返って思うのは、法的に配偶者として認められることで、医者から親族として話を直接聞くことができたり、手術のサインや責任を負うことができる。そのことがどれだけ大切で必要なことなのかということです。彼が亡くなって、彼の家族と一緒に最後まできちんとしたお別れをすることができたのは、たくさんの理解があったからこそで、本当に幸せなことです。でもすべてのゲイの人たちが愛する人の最後を看取ることができないのも知っています。だから、今は同性婚の重要性をすごく実感していますし、航君のように誰もが自分を誇れるような世の中にしていきたいと思っています」

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Have a nice Flight!
七回忌を迎え、真崎航を忘れないためのメッセージ。

彼が亡くなって6年の歳月がちょうど経つ今日。友人たちは彼がいた頃と変わらず仲が良く、今もゲイコミュニティで面白いことを手がけている人が多い。今では笑顔で思い出エピソードに花を咲かせるようになった。そしてこの年も同じく友人たちの輪の中に真崎航の妹さんの顔もあった。みんなと同じく楽しく微笑みながら近況報告をしあっていた。
妹さんはあの時のことをどう感じ、今どのような思いでいるのだろうか。実際に真崎航がどんな兄だったかを聞くと、
「皆さんの中では、兄の言う「仲の良い兄妹」というイメージが強いかと思います。しかし、実際はやはり身内故の苦労はありました。兄が理由で男性と破局なんてこともありましたし、亡くなってからも兄に迷惑をかけられた事は多々ありました。
ですがそれらが過ぎ去った今になって思い返すと、そんな中で真に私の事をきちんと考えて大切にしてくれる人たちと出会えたのも事実です。
何だかんだと周囲を振り回す人ではありましたが、良い意味でも悪い意味でも私が私である上でかけがえのない唯一無二の存在だったと今は思えます」
と誇らしげに応えてくれた。そして最後に面白い夢の出来事を話してくれた。
「長いようであっという間に過ぎた六年でした。正直、他が忙しくバブリーナさんに言われるまで七回忌ということすら忘れかけていた私でしたが七回忌の日の朝方、兄の夢を見ました。
私に構ってほしそうにちょっかいをかける兄に対して私が怒っている夢です。祟られないようにもう少し頻繁に手を合わせなきゃな、という七回忌のエピソードでした」

――How beautiful you are…
あなたがただ前に進み続けるから、それを見て励まされて。どうか優しくて穏やかな風が、包んでくれます様に。あなたはずっと美しいから。

(真崎航&天天が大好きだった浜崎あゆみさん。彼らの想いが通じ、PV出演を果たした、浜崎あゆみ「how beautiful you are」の歌詞より)

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■いつかまた出会えたら…/EISUKE

■僕が一番好きな自分が写っている!/下村一喜

■無限の可能性の教訓/LESLIE KEE

■野性的な躍動感と物憂げな眼差し/新田桂一

■「真崎航」が誕生した瞬間/杜達雄・ADU

■PANAMでいっちゃう航くん/Masaaki

■Lost in Paradide/Pierre et Gilles

記事写真 /EISUKE
取材協力 /Badi・バブリーナー・ご遺族の方々
記事作成/村上ひろし(newTOKYO)