トランスジェンダーの中には、世間にトランスジェンダーであることを知られずに一般男性、一般女性として生活をしていきたい、いわゆる『埋没』していたい人たちも少なくない。しかし、それとは逆にトランスジェンダーとして発信者でありたいと願い、活動する人がいる。そのひとりが、FTMの若林佑真さんだ。彼はなぜそんな考え方になれたのか、そのためにどんなことをしてきたのか、その半生を聞いてみた。
──ふつうの女の子じゃないのかな?女性を好きになることへの違和感。
3歳の時、阪神淡路大震災を機にし、兵庫県から大阪府に引っ越して大学卒業まで住んでいました。まだ自分のセクシュアリティのことなんて分からんかったんですけど、幼稚園児の時には女性の保育士さんのことが好きで、膝の上に座って鼻の下を伸ばしてる様子の写真がたくさん残ってるんですよ。
小学3年生の時に両親は離婚するんですが、まだ父と暮らしていた時には、よく父の格好を真似して自分も革ジャンを身につけたり、野球を始めたり、時には男子トイレに入って用を足したりしていたので、他人から男の子に間違われることもありました。
学校生活は男女とも仲良く過ごせていたし、何も問題はなかったんですけど、高学年になってくると、同級生たちの間で彼氏や彼女の話が飛び交うようになってたんですよ。女友達同士でどの子が好き?って話にもなって、友達がみんな男の子の名前を挙げていく中、僕は好きな子が女の子だったから気まずさがあり空気を読んで男の子の名前を出したりしてました。その時くらいから、あれ?もしかして自分はみんなと違うんかな? と意識し始めましたね。
自分が女の子を好きなのは、男性が多いコミュニティに身を置いているせいなんじゃないかと思って中学から女子校に通い始めたり、高校では焦りもあって男の子と付き合ったりしてみたこともありましたが、キスをするのも、何か違和感があったし、セックスをすることも想像できず、結局お別れしちゃいました。
──女の子との初体験。一般的な幸せを手に入れられないという絶望。
高校2年生の時、同じ学校の女の子をめちゃめちゃ好きになったんですけど、それがその後の自分にかなり大きな影響を及ぼした気がします。
その子はストレートだったんですけど、自然とお互い惹かれて、ふとした時によく目が合うようになって、自然と付き合うことになったんです。
女の子とのセックスも彼女が初めてだったんですけど、初めてした時、幸せ過ぎて泣いてしまいましたね。やっぱり自分は女性が好きなんだと確信した瞬間でもありました。
その子と付き合ったことをきっかけに、美容室に赤西仁の写真を持っていって「これにしてください」ってお願いして髪をショートにしたり(笑)、服装もボーイッシュになっていきました。
でも当時は、今は当たり前にあるLGBTって言葉も知らないし、同性愛と性同一性障害の違いもまったく知らなかったから、自分は一体何なんやろ? っていう疑問がまだぬぐえませんでした。
周囲の人たちの間では、“レズビアン”って言葉がネガティブな意味で使われていたし、自分がレズビアンだとは思いたくなくて、「自分はバイセクシュアルだ」って思い込むようにしてました。いつかは男性を好きになって、結婚して子どもを作って……という幸せを手に入れるんだって思うようにしていたんです。
でもそんな時に、セクシュアリティについての授業がありました。通っていたのが、リベラルな考え方をするキリスト教(プロテスタント)の学校だったので。その担当の先生も多様性を重んじている人だったこともあり、性的指向や心の性について分かりやすく説明してくれて、それで自分がトランスジェンダーに当てはまる人間だと理解し確信したんです。
やっと自分が何者なのか分かった安心感と喜びが湧き上がったんですけど、同時にガッカリするような悲しみの気持ちがあったのも事実だったんですよね。なんや、自分はやっぱりバイセクシュアルじゃないんや。じゃあ、自分が思い描いていた一般的な幸せはこの先にないんや……って。でもその代わりに、これから自分はどういう幸せを見つけられるのか!? っていうことに切り替えることはできましたね。
──家族へのカミングアウトと理解の大きさ。そして、姉からの手紙。
19歳の誕生日直前には家族にカミングアウトしようと決意しました。
母はその時には高次機能障害という病気を患って、今やっていたことをすぐに忘れてしまうというような、新しいことを覚えられない状態だったので、ひとまず姉にカミングアウトしようと、ある日部屋に呼び出して話をしていたんです。すると不思議なことに、車椅子生活で自力で歩くこともままならないはずの母が何故か途中で「何? その話、私にも聞かせて」と言って部屋に入ってきたんですよ。
そこで母にも同じく自分のことを説明したところ、「へぇ、良いやんなぁ」「私は別にあんたが男の子でも嫌やないよ」ってあっさりと言ってくれたんです。同時に姉の方も理解を示してくれましたね。
姉は新社会人だったので、その翌日から仕事で東京に研修に行かなあかんってことで数日自宅を留守にしていて、僕の誕生日当日にもいなかったんですけど、母から「これ、お姉ちゃんから」と一通手紙を渡されたんです。
そこには、「誕生日おめでとう。今まで気づかなくてごめん」「あと、小さい頃、死ねとか言ってごめん」という謝罪の言葉と「これから色々お金かかるだろうし、良かったら使って」という言葉と合わせて一万円が入ってたんです。
姉もその当時はろくにお金もなかったろうに、お金を送ってくれたことと、まだ幼い頃にけなした言葉を覚えていて気にしてくれてたんだってことに、僕はひとりで号泣してしまいましたね。
言われていた方はいつまでも覚えていても、言った方が覚えてることって中々ないですから。
その後、大学病院の精神科に通って性同一性障害の診断を受け、男性ホルモン治療も始めていくことになります。
──杉本彩の熱い言葉に感化され、自分も“メッセンジャー”に!
大学生3年生で就活を始めなきゃいけないっていう時期になると、このままスカートを穿いて就活をするのはキツいなと焦りや不安を感じていたんですけど、たまたま僕が取っていた大学の授業にゲスト講師として杉本彩さんがいらっしゃったんです。杉本彩さんは、かなり前から動物愛護に関する活動をされていたので、それについての講義だったんですが、いつもなら人気のない授業なのにその日は100人くらいの生徒が受講してました。
そこで杉本彩さんは、「自分が本当にやりたいことを実現させるために、杉本彩という芸能人を時に演じることもある」といった内容の話もしていました。自分が表に出ている人間だからこそ、今日もこうしてたくさんの人が講義を聴きにきてくれているんだと。確かにこれは杉本彩さんの思惑通りだし、杉本彩さんすごい!って思いました。
その講義では、生徒からの質問タイムがあって、そこである女子生徒が、「先日、私は譲渡会で一匹の犬をもらい受けました。でも、身寄りのない犬猫は一日に約500匹殺処分されている現状があり、私がたった一匹を引き取ったところで意味はあったんでしょうか?」という質問をしてはったんですよ。
それに杉本彩さんは、「そうおっしゃる方はよくいらっしゃるんですが、一人ひとりの力がたくさん集まれば、やがて世界は変えられます。なので、一人ひとりがもっとメッセンジャーになってください」っておっしゃっていて、それにもめちゃくちゃ感銘を受けましたね。
それでその翌週には、芝居とかなんの経験もないのに杉本彩さんの事務所に履歴書と宣材写真を送ってました(笑)。まあ、残念ながら採用はされなかったんですけど、それをきっかけに就職活動をやめて、他の芸能事務所50社くらいに履歴書を送りまくりましたね。そしたらその中から、一社見事合格することができて、週に一回、夜行バスで東京へ行って芝居のレッスンを受けては大阪に戻るという日々を一年間続けました。
そして、自分がメッセンジャーになるべく、大学卒業と同時に上京したんです。
──迷いながらも、自分のやりたいことを見つけられた!
当時の僕は、有難いことに人にも恵まれて、トランスジェンダーとして生きていて差別を受けることもなく幸せだったんです。
ただ、当時のテレビなどのメディアは、『笑えるゲイ、抜けるレズ、泣けるトランス』みたいな風潮があって、トランスジェンダーは酷いイジメや差別を乗り越えてきた人として、お涙ちょうだいの取り上げ方ばかりでした。
僕は、トランスジェンダー当事者の人がそういった番組を観た時に、誰が明日友達や家族にカミングアウトしてみようって思えるんだろうか? と疑問だったんです。
すでに当時から僕は本を出版したいという夢があって、その本は、トランスジェンダーの当事者が読んでくれた時に、「よし、明日友達や家族にカミングアウトしてみよう!」と思ってもらえるような前向きなものにしたいという構想までありました。だから、その夢を叶えるためにも、まずは芸能界に入る必要があったんです。
でも芸能の道の中でも自分がやりたいことが漠然としていて、より多くの人に自分で自分の人生を楽しく伝える方法はなんだろう? と分からなくなって悩んでいた時期もありました。だけど舞台作品にいくつか出させてもらっているうちに、やっぱり演劇だなって行き着いたんです。演劇なら絶対面白く自分の人生を伝えることができると。
それに気づいた時に、社会派な作品を手がけていた同い年のある演出家が思い当たって、すぐアポをとったんです。実際に2人で会って、「こういうトランスジェンダーの舞台をやりたいから、一緒に作品作ってくれませんか?」ってお願いしたら、意気投合して作品作りがスタートしました。
それは僕が初めて企画と脚本にトライした、『イッショウガイ』というタイトルの自叙伝的な舞台作品だったんですが、全身全霊で打ち込んでいて苦労もあったけどすごく楽しくもあって。そこで作品を作る楽しさを覚えたのがきっかけで、これからは作品に出る側から作る側をやっていこうって決意して、2019年に僕がプロデュースを手がける『Pxxce Maker’(ピースメーカー)』という団体を立ち上げました。
Pxxce Maker’では、「性」をテーマにLGBTという一つの生き方をバラエティに富んだ見せ方でお客さんに伝えていくのが目的の団体です。演出や脚本もいろんなタイプの人材を起用していきたいと考えています。舞台に出演しなくなったので、裏方作業がメインになりましたけど、それが今の自分ができることなんだと思ってます。
──いろんな人の“当たり前”の価値観を受け入れられるようになった。
上京してから変わったことというと、人間としてシンプルになったんやないかと思います。
上京したての頃は、「男は女が好きで、女は男が好き」っていうステレオタイプの既成概念をどこか僕自身も持ってたんですけど、仕事でいろんな人と出会ったり、新宿二丁目でもいろんな話を聴いたりしているうちに、その既成概念がどんどん自分の中から剥がれていった感じ。
かといって自分の性的指向までは今のところは変わっていないんですけど、あらゆるタイプの人たちと会っても、へぇ~そうなんだってシンプルに捉えられるようになったのは上京する前との大きな変化だと思います。
だから、今後も多種多様な人の“当たり前”を舞台作品に活かしていけたらなと考えてます!
渋谷のラジオ(FM87.6MHz)番組『カラフルサンデーSHIBUYA!!』でパーソナリティを担当している若林佑真さんとガクカワサキさん(左)。
■ プロフィール
若林佑真/FTMタレント、Pxxce Maker’代表
1991年、兵庫県出身。株式会社トレジャーオブミュージック所属。2019年『Pxxce Maker’』を立ち上げ、多数の舞台作品をプロデュースしている。
■ Twitter@Waka61Y
■ Instagram@wakabayashi.yuma
取材・インタビュー/アロム
写真/新井雄大
記事制作/newTOKYO
※この記事は、「自分らしく生きるプロジェクト」の一環によって制作されました。「自分らしく生きるプロジェクト」は、テレビでの番組放送やYouTubeでのライブ配信、インタビュー記事などを通じてLGBTへの理解を深め、すべての人が当たり前に自然体で生きていけるような社会創生に向けた活動を行っております。
https://jibun-rashiku.jp/