【第2回/ゲイカルチャーの未来】昭和ゲイカルチャーの頂点に君臨した「薔薇族」という金字塔/伊藤文學インタビュー

昭和から平成、そして令和にかけて50年近く、ゲイメディアの主流として様々な情報や出会いを発信し続けてきた商業ゲイ雑誌。昨年1月末に不動の人気を博した『バディ』が休刊し、今年4月には最後の砦であった『サムソン』も休刊。日本の商業ゲイ雑誌の歴史に幕を下ろした。

時代を遡ること26年前、バディが創刊された頃はまだ、一般のゲイ読者が雑誌に顔出しで登場する時代ではなく、当事者たちにとってもゲイコミュニティはミステリアスで、知らないことだらけだった。そして、現在はインターネットが主流となりカミングアウトする人が増え、SNSや動画配信でもゲイ個人が自分の個性を活かして大きな影響を生み出している。

「ゲイメディア」=「ゲイ雑誌」という単純で分かりやすかった時代が終わり、商業ベースのマスメディアから、個人が情報を発信するインフルエンサーへと時代が移り行く過渡期の今、伝説的ゲイ雑誌を創った4人が語るこれからを担うゲイに託す未来への希望。そして、日本のLGBT文化を支え続ける7人の瞳に映るゲイカルチャーの未来を届ける全11回のインタビュー特集をお届け。

薔薇族の編集長の伊藤文學

第2回目となる今回は、今から49年前。まだ同性愛が禁忌だった時代に日本初の商業ゲイ雑誌『薔薇族』を創刊し、昭和のゲイシーンのみならず一般メディアにも多大なる貢献をしてきた伊藤文學さん。異性愛者である氏がゲイ向けの単行本を多く出版し、ゲイ雑誌を誕生させた当時の「時代を読む力」について、そして、これからのゲイシーンに対しての思いを伺った。

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──マスターベーション本で見えてきたゲイたちの存在。

僕は大学卒業後、親父が創立した第二書房で働いていたんだけど、不景気な時代で。小さな出版社が生き延びるにはエロ本しかないと考えて、一般成人向けに夜と騎士をかけた『ナイト・ブックス』という新書シリーズ(単行本)を立ち上げたわけです。発刊ペースは月に一冊で、60冊くらい出したかな。親父が第二書房を僕に任せてくれてたので自由に本を出せたのですが、売り上げは好調でした。

当時は「マスターベーションは体に良くない」というのが世間の通説だったんだけど、何かの雑誌で医学博士の「マスターベーションをしても問題はない」という記事を見て、僕自身が「悪いことをしているわけでない」と救われた経験があったんです。そこで、きっと罪悪感を抱いてマスターベーションしている人も、正しい知識があれば気持ちが楽になるだろうと考えて『ひとりぼっちの性生活〜孤独に生きる日々のために〜』という単行本を出版しました。テレビやマスコミでも取り上げられるほどの反響でシリーズ化したのですが、読者の方から多くの手紙が届いて。その中に「銭湯で男性の裸を見て片隅でこっそりマスターベーションをしています」などの手紙も多かったんです。そこでひらめいたのが、男性同性愛者向けの単行本を作ろう、ということでした。

──初のゲイ向け書籍はセックス指南本だった!?

ただ、当時はまだ一般書店に並ぶ男性同性愛者専門の本がなく、社会的にも認められていない時代だったのでいきなり出版する勇気がない。その頃、ストリップ劇場などでレズビアンショーが流行していて、ならば先に女性同士の単行本を出そうと『レズビアンテクニック〜女と女の性生活〜』を出してから、その第二弾として1968年に『ホモテクニック〜男と男の性生活〜』を出版することになりました。

新宿に池田屋書店があって、その隣のビルの5階にいわゆるハッテン映画館があったんです。それと、新宿二丁目にはまだゲイバーが30件ほどしかない頃だったんだけど、マスターたちが「書店では買いにくいでしょう」ということで「ホモテクニック〜男と男の性生活〜」を何冊も買ってお客さんに配ってくれたりしたんです。その結果、第二書房の書籍の中でもトップ3に入る売れ行きになりました。それから、20冊くらいゲイ向けの単行本を出版したのですが、おそらく一万人近く定期的に購入してくれる読者がいたと思います。

──ゲイの出会いのために創刊された日本初の商業ゲイ雑誌「薔薇族」

書店では買いにくいということで、わざわざ下北沢の僕のところに買いに来る読者が多くいました。せっかく来ていただいたので応接間に案内してお話を伺ったりしてたんですが、皆さん「出会いの場がない…」「初めてのゲイバーの扉を開ける勇気がない…」と言うんですね。

すでに男性同性愛コーナーがある一般風俗誌や、会員制のゲイ向けミニコミ誌はあったんだけど、ゲイ専門の商業雑誌はなかった。そこで文通欄のあるゲイ雑誌を作ろうと考えました。単行本の巻末に雑誌創刊の告知をしたんだけど、それを見た藤田竜さんと間宮浩さんが電話をしてきたんです。ふたりは当時、『風俗奇譚』というSM雑誌で作家として活躍していて企画力もあるし、絵を描いたり、マルチな才能を持っている。実は僕は単行本しか作ったことがなかったのですが、このふたりと出会ったことで1971年に日本初の商業ゲイ雑誌『薔薇族』が創刊できました。

当時、『風俗奇譚』などの風俗誌は大手取次店では取り扱ってもらえなくて、全国の書店で販売するルートがなかったんです。トーハン(取次店)の課長に笹子さんという方がいて、相談をしたけどなかなか理解してもらえない。なんとか粘って、一万部刷ったうちの5千部を担当してもらうことになり、残りの5000部は他の複数の取次店だったんだけど、口説きに口説いて、全国の書店に置いてもらうことができました。最初はページも薄めで、創刊号の文通欄掲載は7人のみ(そのうちのひとりは藤田竜さん)でしたが、2号目で20人、3号目では100人と投稿がどんどん増えていきました。

薔薇族の編集長の伊藤文學の顔

──薔薇族の影響で多くの競合誌が誕生した70年代後半から80年代初頭。

藤田竜さんはすでにアーティストとして著名だったパートナーの内藤ルネさんを支える日陰の身だった人で。そんな彼が初めて自身が表舞台で活躍できる場を得たのが薔薇族だったので、藤田さんは僕に長いこと、内藤ルネさんを紹介してくれなかったんです。最初の3年くらいは藤田さんが表紙のイラストを描いていて、内藤ルネさんが薔薇族の表紙を飾るのはそれからだいぶ経ってからです。藤田さんはとても気まぐれで、実は電話をするのも怖かった。機嫌を損ねると「じゃあ辞める」とか平気で言う人だったので付き合うのが大変。僕は岩手県生まれの母親に似て辛抱強い性格だったので、薔薇族を続けるために常にペコペコ頭を下げていた。でも、そんな藤田竜さんがいてこそ、薔薇族は続けられたのだと感謝しています。

売り上げも好調だったので月刊にしようという気持ちはあったんだけど、1974年に『アドン』と『さぶ』という競合誌が創刊されたので、この年に薔薇族も月刊化しました。70年代後半から80年代初頭にかけては、『ムルム』『TheGay』『サムソン』『スーパーモンキー』など、多くのゲイ雑誌が創刊され、競合誌が一気に増えた時期でした。

──自分にはできないこと。これからのゲイメディアに託す想い。

2000年代に入ってインターネットの普及で雑誌が売れなくなったのは時代の流れだったと思います。いろんな事情があって『薔薇族』は2004年から2007年にかけて休刊と復刊を3回繰り返したんだけど、2008年に出版した398号で、僕は潔く辞めてしまおうと「勇退宣言」をしたんです。そうしたらテレビや新聞社、週刊誌やラジオだけでなく、海外からもマスコミが押し寄せて報道してくれて。廃刊になってあれだけ話題になる雑誌というのは一般誌でもそうそうなかったと思う。それだけ、薔薇族は日本の同性愛史に残る存在だったのだと思います。昭和のゲイの同性愛事情を知る資料でもあるし、単なるエロ雑誌ではなく、文化を作ったという自負があります。

僕は今でも毎年300枚ほど年賀状を送るんだけど、何通か戻ってくるんです。ゲイ雑誌の文通欄がなくなって、インターネットができなくて、誰ともコミュニケーションをとらないまま、ひとりで住んでいる年配のゲイの方がひっそりと亡くなっていく。僕はブログとツイッターをやってはいるけど書いた原稿を若い人にアップしてもらっていて、僕自身がメールやネットができないし見ることもできない。今は定期的に下北沢のカフェで「文ちゃんと語る会」を開催しているけど、インターネットで告知をしても年寄りは来ないよね。確かに、インターネットの時代ではあるけど、そこから取り残されてしまった人に手を差し伸べてもらえるようなアイデアを、若い世代の人にぜひ考えてもらいたいな、と思います。

■ 伊藤 文學/いとう ぶんがく
1932年3月19日生まれ、東京都出身。出版社『第二書房』の経営者、雑誌編集者。日本初の商業ゲイ雑誌『薔薇族』(1971年〜2009年)の創刊者・初代編集長。現在は下北沢のカフェにて定期的に「文ちゃんと語る会」を開催している。
■ 伊藤文学のひとりごと
■ 二代目編集長による薔薇族編集部

取材・インタビュー/みさおはるき
編集/村上ひろし
写真/EISUKE
記事制作/newTOKYO

※このインタビューは、月刊バディ2019年1月号(2018年11月21日発行)に掲載された「ゲイコミュニティの未来へ/FUTURE:From GAY MAGAZINE」を再編集してお届けしております。