井上健斗のカルペディエム Vol.6/子どもたちに言ってあげたい言葉。

子ども時代、僕は女として生きるしか選択肢がなかった。こう言うととても悲観的な人生だったみたいに聞こえそうだが、今の僕の価値観は周りに強制的に押し付けられた”視点のズレ”を経験したからこそ、得られたものだと考えるなら、もしかしたら「僕」という人間を培うためには必要不可欠なものだったのかもしれない。

ーーきっと生まれ持った体と心の形が違っていた方々は、また別の経験をしてきたのだろう。
「僕」という一人の人間が経験した、幼少期に周りの大人たちの言葉や反応で心を痛めたこと。
逆にこんな言葉や反応があれば救われただろうな。をまとめててみました。

子を持つ親や周りの方々、そしてこれから多くの出会いを経験していく方々に、より良い社会になるための「気付き」があることを願っています。

幼少期に傷ついたこと
幼少期はカミングアウトをしていなかった。ゆえにトランスジェンダーであることを直接的に攻撃されることはなかった。
子どもながらに「これは他人には言ってはいけないんだ」と感じ、親にも、友人にも隠していたことは自覚している。秘密を抱えるということは、傷ついていることすら隠すことでもある。
だから、日常の周りの大人たちの何気ない反応ですら、心を痛める場面が多かった。

>>「女の子なんだから…」
この手の言葉は、ほぼ毎日言われていた記憶がある。僕らしい自由な行動を「それは男の子のやることでしょ!」と窘められ、「男の子っぽい=変わっている」という価値観を押し付けられて、行動を制限された。

>>LGBTQ関連の番組を目の前で変えられる
単に興味がない話題より他の面白い番組を選ぼうとしたのかもしれない。ただ、興味が一切ないというのも一つの答えであり、自分自身が目を背けられる存在に扱われたようで、「隠さなきゃいけないことなんだ」と、自己否定に拍車がかかってしまった。

>>学校でも家でも笑い物にされることが当たり前
よくホモ、オトコオンナと揶揄われた。こういう言葉は幼少期の子どもたちは好んで使うけれど、それに対して窘めることなく、先生や大人たちも一緒に笑っている印象だった。僕が生きている世界では、そういう立ち位置なんだな。と悟り、ここでも自己否定が徹底して刷り込まれていった。

性転換期に傷ついたこと
僕は、性別適合手術を決意した後、周りへのカミングアウトを決行した。そもそも、僕が選択した人生について、尾ひれの付いた正しくない形で噂話が広がることが嫌だったから。当時の携帯メモリーに入っていた全員に直接電話やメールなどで、自分の言葉でカミングアウトをした。その際の反応で印象的だったことをあげたい。

>>「今までも楽しそうにしていたから、これからもそのままで大丈夫だよ」
親や、僕のことを「女性」としてよく知ている親世代の人たちから言われた言葉。一見受け入れてくれているようにも感じるが、これこそが僕をずっと苦しめてきた「ことなかれ主義の根底に隠れるマジョリティの価値観」を表現した言葉だと思う。そのまま生きるしか道がなかっただけなんだけど、しょっぱなから僕の苦しみを理解する気はなく、拒絶している言葉であることを、まず当の本人たちが分かっていない。「これまで問題がなかったのなら、そのまま生きなさい」と、僕を突き放しているに過ぎない。僕自身は自分に正直な人生を選びたいだけなのに、LGBTQ問題になると「気持ち悪い…」という印象を受けたのがそれとなく伝わってくるのも、しんどかった。

>>「身体にメスを入れてまで性転換したいの?」
もしかしたら、重要な選択なので「後悔しないようにもう少し考えたら?」という意味があったのだとしても、長年悩んで考えた末に辿り着いた僕の決断に対し、「そんなことしちゃダメ」に聞こえてしまっていた。背中を押して欲しいのに、否定されると自分自身でも「このままで生きていけないのか?」と決意が揺らいでしまう。その言葉は、24時間周りに合わせて生きなくてはならない日常が、これからも一生続くことを意味する。本当の僕の幸せを考えてくれていないな、と感じた。

>>「性別を変えるなんて、親不孝だ」
こう言う人に対して、毎度「僕の親に会ったことあるんですか?」と言いかけては飲み込んでいた。親を切り札に出せば「あなた一人の人生ではないのにわがままだ」と僕の意見を封じられると思っているようだけど、そもそも僕の親を知らないあなたが、この場にいない僕の親の代弁をする権利はないですよね、って。僕の親は「男でも!女でも、私の子供よ!ガハハ!」と笑っていたので、決して親不孝とまではいかない状況だと思う。もちろん、悩んだり苦しい思いもあったかもしれないが、親不孝だ!と言い放った人のイメージと現実はかけ離れていた。

>>「最先端だね~!!」
これは僕のカミングアウトを肯定する意味も含まれている印象なので傷つけられる言葉ではないんだけど、言われてしまうと引っかかることは確か。だって、LGBTは流行でも最先端なんかでもなく、昔から当たり前に存在していたから。それを「時代が新しいから」と思うのは、ちょっとズレてる。知らない世界なんていくらでもあるのに、「ちゃんと見れば自分の身近にも当たり前にいるんだ」と気づかないことを、少し残念に思ってしまう。

大人たちに言って欲しかったこと
正直、結論はそんなに難しい話ではない。
子どもの頃は「あなたはあなたのままで(自分らしくしていれば)大丈夫だよ」と僕自身を肯定する言葉、いや、あえて言葉にしなくてもいいけれど、受け入れてくれている安心感を与えて欲しかった。
僕は幼少期に肯定してくれる言葉をもらった経験がなかった。一人でも身近にいる大人が僕をありのままに受け入れてくれていたら、また違った人生になっていたと思う。

良かれと思って発した言葉が相手を傷つけたり、追い詰めてしまうことはよくある。「みんなが正しいと思っていること」が「みんな」に当てはまらない人とっては不幸だったりもする。
だが、こんなことはLGBTQ関係なく、日常でもよくあることだ。みんな、自分の興味関心があること以外の情報を持ち合わせていない。僕だって同じ。結局は人間自分の視野の範囲で生きている。

価値観には人の数だけ答えがあって、一生かけてでも全てを知ることは不可能だけど、「自分が無知」だと知っている人は、たとえ相手が子どもであっても、まず聞くことを心がけているのだと思う。
僕は「人とは違う」経験をしたから気付けたのかもしれない。でも、誰にでも気付く機会はいくらだってある。

だからこそ、僕は、知らなかったことを知らなかったと言える大人であろうと思う。
子どもは、大人が思っているよりも十分観察しているし分析もしているから、言葉のチョイスよりもその姿勢を子どもらに見せていきたい。
そんな大人たちが作る社会が、多様性を楽しめる社会のベースだと思っている。

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文/井上健斗  Twitter@KENTOINOUE
イラスト/RYU AMBE  Instagram@ryuambe
記事協力/性同一性障害トータルサポート/G-pit